第一部〜青年は荒野をめざした〜

鉄のカーテンの国(旧ソ連)アウフ・チャップマン(ストックホルム)|ボヘミアンの街(パリ)|
はじめての皿洗い(ロンドン)サンドイッチ職人(ロンドン)アフリカをめざして(ロンドン)
魅惑の歴史遺産(イタリア)アラブな人たち(アルジェリア)タイムスリップ万歳(モロッコ)


【3】ボヘミアンの街(パリ)

 食うためのアルバイト探しをする事になって、北欧を転々とした私はお金がどんどん無くなってゆく状態のまま、ヒッチハイクでドイツとフランスの国境の街「ストラスブール」までやって来た。
 お金は無かったがここに来るまでの2週間、デンマークやドイツでは半分観光気分も味わいながらヒッチを続けていたので精神的には落ち込んでいなかったが、雨に打たれたり野宿の連続だったりで体はかなり疲れていた。
 なにしろ家裁道具一式を放り込んだ20キロちかいリュックを背負って、毎回郊外のインターチェンジまで延々と歩くのだからかなり体力と根性が要った。
 リュックを背負った自分がカタツムリのように思えて♪でんでん・む〜しむし・か〜たつむり〜♪なんてヤケクソで鼻歌唄いながら国道を歩く時もあったが、考えてみるとある種‘孤独との戦い’であったかも知れない。


右上:ハムレットの舞台で有名なクロンボルグ城(デンマーク)/右下:ストラスブールの街

 ストラスブールという街はドイツとフランスの香りがミックスした特徴的な街で、私は中学の国語の教科書で習ったアルフォンス・ド−デ「最後の授業」の舞台である事を思い出していた。水と油ほども違うドイツとフランスの気質が第二次大戦のせいで無理矢理混じり合わされたという歴史があるのだが、私にはその事よりもこの街を境にしてヒッチやアルバイトがぐんと難しくなるという情報の方が気になっていた。
 ドイツから北のゲルマン系の国々は伝統的に旅人に対してのホスピタリティの文化が定着しているが、フランス・イタリア・スペインなどの南欧ではヒッチハイクは至難の技らしかった。
 しかし折角ヨーロッパまで来たのだし、やはりパリの芸術の感性に触れたいという思いもあって夜行列車で「華の都・パリ」に向かった。
 そしてパリに行くもうひとつの理由は、日本で読んだガイドブックに‘パリの職安に行くと学生向けのアルバイトを紹介してくれる’と書いてあったからだった。その職業安定所の住所も載っていたので私はしっかりメモをして持って来ていた。


上:両脇のシャンゼリゼー通りの向こうに凱旋門が見える/下:凱旋門とエッフェル塔

 早朝にパリの東駅に着き、うろうろ迷いながら3時間程歩いて遠く向こうに凱旋門が見えた時はさすがに感激だった。
 「翼よ、あれがパリの灯だ!」ではないけれど、これまで何度となく映画や写真で見てきたパリの代表的なモニュメントが現実に青空を背景にそびえ立っている姿は、改めてヨーロッパに来た事を実感させた。
 3週間前に初めてモスクワのクレムリンを目にした時以上に、何か現実とは思えないような「とんでもない所に一人で居るんだなあ・・・」という実感がしてきたのだった。
 若さゆえの無鉄砲さと勢いと‘めくら蛇に怖じず’でここまでやって来たが、そろそろ冷静になってきて‘恐さ’を感じ始めている頃でもあった。
 しばし感慨にふけりながら少し旅人気分を味わっていたが、そんな呑気な事ばかりも言っていられない。さっそく例の職安探しを開始した・・・のだが、地図を片手にどれだけ歩いて探してもサッパリ見つからない。
 これまで来たドイツまでの北部と違って街ゆく人も英語がサッパリ通じないし、道を訊ねても何となく迷惑そうな表情がうかがえる。前に無銭旅行仲間から「パリはよそ者に冷たいよ」と言われた言葉を思い出していた。片言のフランス語も喋ってみるのだが、地名となるとフランス語独特のリエゾン(単語の終りの子音と次の単語の母音が連なっちゃうヤツ)が正確ではないものだから、やっぱり通じない。こうなったら、とにかく自力で探し当てるしかない。

 どれだけ歩いてどれだけ時間が過ぎたのか覚えていないが、メモにある通りの名前を頭に叩き込みながら街角や壁にある‘通り名’のプレートを次々に見て行って、ついにたどり着いた。
 いや、たどり着いたのではなくて事実が判明したといった方が正しい。本に記されていた通り名はスペル・ミスでbがdに、qがgになっていたりして全く意味をなしていなかった。たぶん筆者のメモ書きをそのまま印刷して、どちらに間違いがあったのか知らないが、校正チェックもいい加減だったのだろう。
 すごく腹が立ったが、極め付けはそれだけではなかった。その通りにある筈の‘職安’はすでに無くなっていたのだった。2〜3年前の話なので、もしかすると新学期が始まる時期だけ学生のために臨時で開設するというようなものだったのかも知れない。建物自体が無いなんて考えられなかった。
 実はここに来るまでにもいくつか日本で得ていた情報と事実が違うというケースには遭遇していたが、今回は生活もかかっている話だったので、かなり失望してしまった。と同時に、そんな物を当てにしてやって来た自分のこれからの先を考えると、大いに不安になってきたのだった。
 「え〜い!こうなったら何とかしてお金を作る事を考えなあかんぞ。」

 一晩考えて私が始めたのは・・・ヒッチでお世話になった人にプレゼントしようと日本から持って来た‘浮世絵の絵ハガキ’と安物の‘ニセ真珠ネックレス’を街頭に並べて売る事だった。


印象派の活躍したモンマルトルには世界中から売絵画家たちが集まる

 翌日、手持ちの‘商材’を抱えて私の向かったのは、色んな国の絵描き達が集まり観光客相手に絵を売っているモンマルトルという名所だった。
 物売りとは言っても、誰が見ても‘怪しげな物を売っている乞食’くらいにしか見えない事は分かっていたから、さすがに表通りや品格の高い所では品物を広げる勇気はなかった。と言うよりは「一度乞食を経験してみたい」という好奇心の部分もあったし、各国から放浪画家たちの集まっているモンマルトルでボヘミアンな気分を味わいたいという事もあったからだ。
 思い付きで始めた、にわか作りの街頭販売だから何の準備もしていなかったので、取りあえず人目を引くためにデッカイ日の丸の旗を広げた(後で考えると国辱モノだねえ)絵ハガキとネックレスを並べただけでは貧相なので、折り鶴と五円玉をちりばめてディスプレイをしてみた。折り紙と穴空き貨幣というのはエキゾチックで評判が良いという、これも何かの本で読んだ事を参考にしてみたのだが・・・ただの自己満足ではあった。
 チンケで怪しげな物売りではあったが、それでも面白そうに見えたのか人の数だけは集まって来た。ドイツ人・アメリカ人・カナダ人など外国からの観光客ばかりで地元の人間はいなかったが、わざわざパリにまで来て日本の浮世絵ハガキやニセ真珠なんか買う奴はいないだろうし、たぶん「モンマルトルにこんな変な日本人が居た」という物珍しさを土産話にするくらいだったのだろう。ほとんど売れなかった。

 店(?)を広げて30分くらいしただろうか、二人のポリスがやって来た。珍しそうな人だかりと賑わいを見て不審に思い、注意をしにやって来たのだった。
 「何をしているのだ?」「許可を取っているのか?」みたいな事を言っているが、どちらにしても違法な事は分かっていたから適当にはぐらかすしかない。「日本から来たが、お金を無くして・・・」どうとか、「この品は文化的価値が高くて・・・」こうとか、どうせ理解出来ないだろうと思っていたので無茶苦茶な英語で説明した。
 案の定さっぱり理解は出来ないみたいで(実はこちらの英語能力に問題があるのだが)困った奴だといった顔つきで「とにかく、ここで物を売ってはいけない」とか言い残して去って行った。
 「しめしめ上手くいった」と思ったのは早計で、その30分後に廻って来たときには「まだ居るのか?」といった感じだったが、そのまた30分程後にはついに強制撤去させられてしまった。
 生まれて初めての、それもパリでの‘乞食体験’は2時間足らずで幕を閉じたが、一応絵ハガキ一枚とネックレス一本の計35フラン(当時・約2,500円)の収入を得たのだった。


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