〜青年は荒野をめざした〜

鉄のカーテンの国(旧ソ連)アウフ・チャップマン(ストックホルム)ボヘミアンの街(パリ)
はじめての皿洗い(ロンドン)サンドイッチ職人(ロンドン)アフリカをめざして(ロンドン)
魅惑の歴史遺産(イタリア)|アラブな人たち(アルジェリア)|タイムスリップ万歳(モロッコ)


【8】アラブな人たち(アルジェリア)

 ヨーロッパに渡ってアルバイトをしながら、デザインを学ぶため専門学校に入学して・・・という出国当初の目算はすっかりズレてしまって、今やヨーロッパをヒッチハイクで放浪する単なる異邦人になってしまった。ロンドンに居た頃はそんな状況に少し疑問とアセリを感じたりもしたが、今では毎日がスリル一杯の新鮮な体験の連続で将来の展望などを考える気分ではなかった。
 ローマからナポリに着くと、ベスビオス山を眺めた程度の数時間の市内見物をして船着場に向った。「ナポリを見て死ね」という言葉があるくらい、この街には見るべきものの宝庫である事は知っていたが、今は早くアフリカに渡りたい一心だった。
 船はナポリを出ると、シチリア島を経由してチュニジアの首都・チュニスに着く。途中のシチリアで一時間くらい停泊してチュニスに着くのは夜になる予定だった。相変わらず、真っ暗な夜の時間に見知らぬ街に到着するパターンだ。何度も経験したパターンなのであまり気にせず、ホテル代を浮かせるために選んだ強行スケジュールだったが、後に映画「ゴッドファーザー」でマフィアの故郷・シチリアの風景を見た時は、一泊くらいしておいたらよかったなあと思ったものだった。
 これまで北欧やイギリスで何度かフェリーで海を渡って来たが、イタリアから北アフリカに渡るフェリーは少し雰囲気が違っていた。生活の匂いが漂う買い出し組や、ヨーロッパに出稼ぎに来ていた帰省組などで溢れていた。ヨーロッパも南の方まで来るとやや貧困を感じさせて違った顔を見せるが、気性は全く陽気そのものだ。なんだか雑然とした雰囲気の中で、夕暮れの地中海を進んで行ったのだった。


夕焼けの地中海。遥か彼方には北アフリカが待っている。

 北アフリカ・アラブの国チュニジアに着いたのは午後9時頃。ぞろぞろと下船してゆく集団の後に付いて船着場を出たのはいいが、周り一面が真っ暗闇だった。かすかにポツリと街灯が立っていたが、初めての土地に足を踏み入れた私には右も左も判らない。あっという間に人気は去って、ガランとした場末に独り残されてしまった。
 周囲が暗くて、アフリカにやって来た実感なんて少しもなかった。ただ、これまでのヨーロッパとは雰囲気の違う怪しげな感触は確かにあった。モスクワで、ブリュッセルで、ミラノで何度となく夜更けの街をさまよった経験はあったが、これほど視界に何も無い心細さは初めてだ。アラブの街は白壁で平屋の家が立ち並び、夜更けのその風景は人影のないキリコの絵画世界のようだった。
 これまでなら街の中央めざして、少しでも灯りと人の居そうな場所に向うところだが、全く見当も付かないので早々と一夜を過ごす空き地を探しに歩き始めた。方向感覚もないまま一時間程さまよって、人けの無い空き地を見つけたので寝袋を敷いて寝る事にした。気が付けば、昼から何も食べていない。リュックからパンを取り出して空腹をしのぎ真っ暗な星空を眺めながら眠りに就いた。

 翌朝、目が醒めると辺りは白い家々が立ち並ぶアラブ特有の風景だった。その向こうには真っ青な海が広がっている。高いビルがひとつも無く、一面に連なる平屋の家々が空の広さを際立たせている。
 とにかく街の中心部を求めて歩き出した。歩を進めるにつれてまばらな建物や人々を見かけたが、リュックを背負ってGパンをはいた東洋人を怪訝そうに眺めるだけで無愛想な表情だった。とんでもない僻地に来た感じだったが、このミステリアスな感じがたまらなく好きだった。
 小さな宿を見つけて荷を下ろした。部屋は実に粗末なものだったが一応ベッドとロッカーとトイレが付いていた。体を洗うには大衆浴場といった感じの有料シャワーが外にあって、それを利用する事になる。ここしばらく便をしていなかったので早速トイレに入ったのだが、洋式トイレに慣れていた私は戸惑った。便器をまたいでしゃがみ込むスタイルの一見和式のトイレなのだが、その底は一面が陶器になっていて排泄物の落ちる空洞になっていない。よく見れば中心部に直径15センチくらいの穴があいていた。
 「え〜っ?こんな穴に落とすのか〜〜!?うまく命中しなかったらどうするんだ!?」一瞬たじろいだ私だったが、ふと隅に目をやると水の入った空き缶と棒切れがあるのに気が付いた。
 「ハズしたら水を流して、棒で叩き落とせという事か・・・」郷に入らば郷に従えで仕方なく納得したが、これからしばらく続くアフリカでの旅が決して快適な旅では済まないだろうという予感がしたのだった。


早朝のチュニスの波止場には静けさが漂う。

 チュニスに2日ほど滞在してから早朝に町を発つ事にした。チュニジアからアルジェリアを経てモロッコに向う、北アフリカ沿岸を西に進むヒッチハイクの始まりだ。地図で大体のルートをチェックして町外れに向う。視界の広い道をてんてんと歩き続けるのだが、乾燥した土埃や動物臭が漂っていた。国は違うが、マカロニ・ウエスタン「荒野の用心棒」みたいな世界が広がっている。
 一時間近く歩いただろうか、車の通りそうな道を見つけて沿道に立った。親指を立ててひたすら車の通るのを待つが、どうも気配が無く少しずつ不安になってきた。地図で再確認をしてみたが、やはりこの道がアルジェリアに向う本道のようだ。ここは忍耐と考えてとにかくジックリ待つ事にした。
 時間は過ぎてゆくが車は全く止まらない。それどころか行き交う車さえほとんど無かった。一時間の内に4、5台が通る程度で全く乗せてくれるような気配もなかった。陽が昇り正午近くになり、ようやく一台の車が止まってくれて町を離れる事が出来たのだった。

 一日目はある程度進んで別の町に移動できたが、二日目、三日目と日が進むに連れヒッチはだんだん困難になってきた。とにかくエンドレスな荒野にほうり出されたまま、ひたすら西に進むという感じで町にたどり着く事もなく旅を続けている。野宿の連続でシャワーも浴びていない。食料だけは何とかパンと牛乳パックを調達して過ごしているが、慢性の空腹感でいっぱいだった。「次に町に着いたら、たらふく喰ってやる。」という変な目標だけが心の支えとなっていた。
 チュニス出発から四日くらいして国境を越えアルジェリアに入ったが、ヒッチの状況はまったく変わらなかった。朝早くから夕方まで9時間近く沿道の一カ所で待ち続けた事もあった。車は相変わらず少なくて、サンサンと陽の照る中をロバの引く荷車が通ってゆくだけといった有り様だった。


左:チュニスの郊外に向う道。荷車だけが通ってゆく / 右:沿道を行くロバの一行。ミニ・キャラバン(小商隊)といった感じだろうか?

 アルジェリアでのヒッチはまったく順調に進まなかったが、色々と面白い体験の連続だった。アナバという町に夜更けにたどり着いたが、いまでも忘れられない程の素場らしい景観だったのを覚えている。
 深い渓谷の斜面にびっしりと立ち並ぶアラブの家々の灯が、深い闇の中でまるで宇宙空間の星たちのように360度の視界に輝く様は筆舌に尽くし難いものだった。一夜明けて再び町の中心にある陸橋を散策してみたが、深い谷底から鉄柱で支えられた陸橋は町の端から端を結んでいて、その中央に立つと、まるで空中に浮いたような気分になる。橋から渓谷の下を覗き込むと、深い地の底からマッチ箱のような家々がすり鉢に埋め込まれたように立ち並んでいた。


アナバの陸橋から町を眺める。家々は橋の下に面々と連なっている。覗き込むとすり鉢状の深い渓谷だった。

 なんとか一台の車をつかまえて町を出て、いくつかの村を経て首都アルジェに向かった。到着したのは夕方のまだ薄明るい時刻だった。アルジェはさすがに首都だけあって整然としていて、植民地のなごりからフランス文化の香り漂う「白亜の港町」だった。港に面した湾岸道路には大使館やホテルが立ち並んで、テラスでカフェを楽しむ市民もいる。
 街の背後一帯には高い山がそびえていて、その斜面にむかって段々畑のように庶民の家屋が立ち並ぶ様は、ジャン・ギャバン主演の映画「望郷」の舞台としてあまりにも有名だ。蜘蛛の巣状に縦横無尽に続く路地裏は「カスバ」と呼ばれていて、戦時中はレジスタンスやゲリラの隠れ家としての機能も果たしていたようだ。

 私はこのアルジェで、何と!刑務所の檻に入った。・・・というのは、街に着いて建ち並ぶホテルを見たとたん「こりゃあ高い金額を取られそうだ」と思い、かと言ってこんな都会で野宿する場所もなさそうだと思った瞬間、脳裏をかすめたのは「刑務所に泊めてもらう事」だった。
 早速、警察署らしき大きな建物を探し出し交渉する事にした。署内では、大した事件もないのかターバンを巻いて制服を着たポリス達がヒマそうにしている。入口近くに立っていたヒゲ面の男にフランス語で話し掛けてみた。(アラブ圏の国ではアラビア語以外ではフランス語が公用語となっていた。街の標識やメニューも英語はあまり無くて殆どフランス語である)
 「ここに一晩泊めてくれ」という意味の事を言ったつもりだが、内容が常識はずれで突飛な上に私のフランス語はまったくデタラメに近いので当然通じない。しつこく食い下がる私に困った様子のヒゲ男は、ついに署の奥に居た上司らしき者を呼びに行ってくれた。私は「しめた!」と思い、おもむろに財布から札ビラを取り出して、やって来た上司の手に握らせて頼み込んだのだった。

 刑務所というのはややオーバーな表現で、簡易留置場といった感じの鉄格子だったが、初めは難色を示していた署員も私のしつこさにウンザリして、囚人も入っていない状態だったのを幸いに許可してくれた。(勿論「私はアルジェリアの人たちの暮らしを知るために旅をしている。」などともっともらしい事を言って、更に二枚ほどお札を追加した事も効果があったに違いないが)何度も署内の別室で寝ろと勧めてくれたが、私が格子の中がいいと答えると「変な奴だ」と言いたげな不思議そうな顔で了承してくれた。・・・確かに、私は変な奴でした。(でもホテルに泊まるよりは、はるかに安い金額だった筈だ)

 留置場の貴重な体験をした後、別の安宿に数泊して街中を生活者の気分で楽しんだ。私は相変わらず観光名所には興味のない旅で、現地の生活を味わうのが楽しみの旅だったので、誰も行かないような所ばかりをウロウロしているとアッという間に日々が過ぎてゆく。もっと長居をしたかったが、先の予定もあるので心残りを感じながらもアルジェを後にした。
 チュニジア〜アルジェリア〜モロッコという北アフリカのルートの中で、丁度半分くらいの距離になっていた。まだまだ先は長いのだが、依然として困難なヒッチ状態は続いていた。そしてついにギブアップの時が来た。待てど暮せど一向に車が来ない。ついに12 時間も独りぽっちで待ち続けた。辺りの景色はただ暗くなってゆくばかりで、さすがの私も「もう列車に乗ろう」と決心したのだった。しかし列車に乗るにしても、街にたどり着いて駅に行かねばならない。今のこの状態からどうやって駅まで行けばいいのだろう?そんな事を考えながら寝袋に入って眠りについた。

 次の日もまったく車がつかまらないまま夕暮れになり一日が過ぎようとしていた。(何と!昨日から計算すると34 時間も同じ場所に居た事になる)と、その時赤いオープンカーに乗った若者グループがやって来た。この地域では珍しくお洒落なファッションでアクティブな感じがした。
「日本人か?」と声をかけられて「そうだ、今夜泊まる所を探している」と答えると、「じゃあ、この車に乗れ」と言われた。
 車の中ではあれこれと話し掛けてくる。どうやら大の親日家らしい事は判った。カタコトの英語を話す様子をみると何人かは大学生か、それなりに教育を受けている連中らしい。車は夕闇の中を数十分程走り、見知らぬ村に入って行った。


アラブの若者たち。中央の男がグループのリーダーらしくカメラに向かってポーズをとっていた。
それにしても...写真をとるのは珍しいらしく、まともに写せる者がいなくて困りました。(苦笑)

 村に入ると数人の仲間たちが集まって来て、グループの一人が私を誇らしげに紹介し始めた。さっき知り合ったばかりなのに、どうやら「オレの日本人の友人だ」とか言っているらしい。みんな憧れと珍しさのまなざしで見つめてくる。
「おいおい、何かおねだりされるんじゃないだろうな・・・」あまりの友好ぶりに私の方が警戒心をもってしまうくらいだったが、実際は日本の事をとても知りたがっている純粋な若者たちであった。

 アルジェリアは当時、社会主義国であり(そのためこの国に入国するには、日本大使館でビザ申請をする必要があった)西側陣営では比較的に日本が技術提供や社会的支援をしていたため、在住の日本人商社マンも多いらしく親日家が多い。そんな事情が何となく分かってきて納得していたのだが・・・
「腹は減っているか?」と聞かれたので「イエス」と答えるとスパゲティのようなものとパンにスープを持ってきてくれた。食事をしながら談笑した後「今夜はここへ泊まってゆけ」と言う。勿論、願ったりで感謝を示すと、今度は「いつまでもここに暮していても構わない」と言ってきた。
「ありがとう」と答えて、寝床に与えられた小屋に向かおうとすると「明日はアジトの仲間たちにも紹介する」と言い出した。
「・・・アジト・・・って?」まさかアラブ・ゲリラじゃないだろうね〜!?一瞬にしてこの友好的な雰囲気の謎が解けた。
 わずか一ヵ月程前、イスラエルのテルアビブ空港で起こった「日本赤軍によるテロ乱射事件」・・・国際的には非難を買った事件だが、当のアラブ諸国で「日本赤軍」はすっかりヒーローになっていたのだった。

 ここ数日間の疲れを癒すかのようにぐっすり眠った私は、翌日すっかり陽の昇った頃にゆっくりと目覚めた。腹が満たされて屋根のある所で眠るという事は、こんなにも安心できて気分の良いものだったのか・・・。
 外の空気を吸おうと小屋を出ると、はやくも昨夜の仲間たちが集まっていて私の周りを取り囲んだ。人数は更に増えて中学生くらいの子供達までいる。色々と話が聞きたいらしく、物珍しそうな好奇の眼差しで見ている。しかし、英語は殆ど通じないので私はデタラメのフランス語を交えて身振り手振りで話すしかなかった。「日本のJUDOを教えてくれ」と言うので、高校の体育の授業で習った足払いや体落としを教えてやると、これがまた大ウケで何だか気恥ずかしいような気分だったが、とにかく信頼は得たようだった。

 これまで旅をしてきた中でも最高に親しまれて受け入れられた経験をして、改めてアラブの国における「日の丸」の偉大さを感じたものだった。それはアラブ・ゲリラを応援する日本赤軍の存在もあったが、片や社会のインフラ整備に貢献する日本の商社マンたちの存在も評価されている事も事実だった。が、それは兎も角も私としてはいくら快適とはいえ、このままここで暮している訳にもいかないので別れを告げる事にした。例の「アジトの仲間」とご対面してしまうと今後、話がどう展開するものか知れたものではなかったし、とにかく私はモロッコに行ってそこからヨーロッパに渡らなければならない。
 アルジェリアでのヒッチは距離も長くて苦しかったが心に残る旅だった。途中の町で立ち寄った居酒屋では奇妙なアラブ風ダンスを披露する女性に迫られるというエピソードなどもあって、実に楽しいアラブな人たちの生活を垣間見たような旅だった。


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