〜青年は荒野をめざした〜

鉄のカーテンの国(旧ソ連)アウフ・チャップマン(ストックホルム)ボヘミアンの街(パリ)
はじめての皿洗い(ロンドン)サンドイッチ職人(ロンドン)アフリカをめざして(ロンドン)
魅惑の歴史遺産(イタリア)アラブな人たち(アルジェリア)|タイムスリップ万歳(モロッコ)|


【9】タイムスリップ万歳(モロッコ)

 モロッコは当時、ヒッチハイカーの話題の中でも「一番近いアラブの国」としてよく登場する国のひとつだった。西洋文化とは異質の文化が味わえて物価も安く、大麻(アラブでは「ハッシシ」と呼ばれていた)も簡単に手に入る。スペインの南端ジブラルタルから海峡の向こう越しに見る事が出来て、フェリーで渡ればすぐにモロッコ北端のタンジールに到着する。エキゾチックなアラブ文化を味わおうと旅行客はスペインから渡ってくるのが一般的なルートだった。
 しかし私の場合はまったく反対側のイタリアからチュニジアに渡って、おまけにヒッチハイクでやって来たものだから、お手軽な観光旅行とはひと味違ったものになっていた。「これが私の生き様だ」と言ってしまえばそれまでだが、そんな‘しんどい’ヒッチの旅もこれでおしまいにしようと考え始めていた。
 思えば、日本を出てスウェーデンに着いてからというもの、国を渡る移動手段は殆どヒッチハイクだった。北欧をアルバイト探しで転々としていた頃、北欧に職がなくフランスでも期待を外されて最後の賭けでイギリスに向かった頃、そして今回のアフリカをめざしての真冬のヒッチハイク。野宿をしたり、サルベーション・アーミー(救世軍)という安宿に寝泊まりしている内に、いつの間にか宿無し無頼の放浪者になってしまっていた。


どこまでも続く北アフリカの大地

 モロッコに入ると少し先にヨーロッパがあるせいか、少しホッとした感情が湧いて来た。やはり自分もこれまで快適な生活に慣れ親しんで生きてきた性なのだろう、アフリカでの旅は初めはスリルがあって楽しめたが、日が重なるにつれ水準の高い都会的な暮らしを求めるようになってくる。
 初めに訪れたのはカサブランカだった。当時はまだ映画「カサブランカ」を観ておらず、私にとってはビッキー・カーという女性歌手の歌の題名からその名前を知っていただけだった。♪夢のカサブランカ 白いお家で貴方の帰る日を待っている・・・とか何とかいう歌詞だったように覚えている。
 いくつかの町をすぎてモロッコの首都ラバトに着いた。観光客も多いらしく垢抜けした都会の一面も持っている街だった。日中はパリのシャンゼリゼを思わせるような大歩道に店を出す露店商を冷やかしながら歩いたりもした。「クスクス」というアラブ料理を注文してみたが、粟を食べているような感触で閉口した。私は、もう訪れる事もないであろう最後のアラブでの生活を味わうために三日ほどゆっくり滞在しようと考えていた。


アラブの町にはいたる所に露店商が並んでいる。(カサブランカの町で)

 チュニジア、アルジェリアと他の町でも目にした光景だが、朝に夕に町中コーランが鳴り響く様が私は好きだった。街頭のスピーカーから流れる独特のアラビア語のリズムを持ったコーランは、何故か私を懐かしい時代のイメージにタイムスリップさせた。
 そう言えば、横浜からの船が初めて着いた異国の地ナホトカでも良く似たノスタルジーを感じたものだった。市民が公会堂に集まってスピーカーから流れる音楽を聴いている光景は、かつて子供の頃に見た街頭テレビに集まる大人達の風景とシンクロされるのだった。

 私はこのアフリカでもうひとつ心に焼き付いた光景があった。それはある町から町へ移動する乗合いバスに乗った時の事。途中の田舎の停留所にバスが止まった時、小学生くらいの子供がタマゴを手に車内販売に乗り込んで来たのだった。粗末な篭に僅かのタマゴを入れて、車内の乗客達に売り歩いていた。マッチ売りの少女ならぬタマゴ売りの少年だったが、すっかり子供達が労働をしなくなった現代の日本にもかつてこの様な生活風景のあった事を思い出して、ひとりタイムスリップな気分に浸っていたのだった。
 子供は大人の背中を見て生きていた。自分達がどうやって生活の糧を得ているのか、日常の体験から知っていた。家業や労働を手伝う事で、時には対価を受け取ったりもして生活力を養っていったものだ。いつの間にか効率を最重視するようになり、生活と教育と労働がバラバラに切り離されていった。
 私はタマゴ売りの少年の背中を見て、鼻タレ小僧ではあったが大人達と対等に生活していたかつての日本の少年達を思い出していた。


イスラムの寺院。撮影は禁止されていたので隠し撮り。

 夕暮れのラバトの街にコーランが鳴り響いて、神聖な祈りの時間が訪れた。喧騒と静寂の混じった不思議なムードが漂う。
 夕食がてらに繁華街を彷徨ってみた。だだっ広い食堂に扉は付いておらず、鋪装のない土埃の道を行き交う人々から店の中は丸見えだ。粗末なテーブルが無造作に並べられて、天井には大きなプロペラの扇風機が回っている。昔、日本の銭湯でよく見かけたやつだ。店内には揚げパンのようなものや、コーヒーに入れる角砂糖が山と積まれている。お金を払って食べている者もいるが、タダ食いしている奴だっているかも知れないと思った。別にどうだって構わないのかも知れない。
 外にでるとすっかり暗くなっていて、繁華街の両脇には所狭しと露店が並んでいた。アルコールランプの明かりに照らし出される品々が、私には何となく怪しげなモノに映る。粗末としか言い様のないモノばかりであったが、ここの人たちにはこれで充分な生活品なのだろう。
 アラブでの買い物でつくづく思った事は、物の売り買いというものはこの国では交渉事なのだという事であった。まともに言い値でものを買っている姿を見た事はない。必ずと言ってよい程、値段の交渉をしている。売る方はなるべく高く売ろうとするし、買う方はなるべく安く買おうとする。以前に私も経験したが「高いから別の店で買う」と立ち去ろうとすると、待ったをかけてイッキに半額にされたものだ。「そんなら初めから言えよ〜」と思うのは私だけで、連中にしてみたら「こんなところで如何か知らん?」といった感じなのだろう。値下げにしてもかなりアバウトなどんぶり勘定の「原価を割らなきゃいいや」という様子で、経費や利益率なんてまったく関係ない世界のようだ。そうやって眺めているとズルイんだか、お人好しなんだか分からなくなってきた。「買わない」とさえ言えば値段を引くのは見え見えなんだもの・・・。

 私は幼い頃は商店街で暮していたので、この活気には懐かしさを感じていた。裸電球のぶら下がった売台には野菜や果物がそのままの姿で山と積まれ、ハエ取り紙の下では店員が魚をぶら下げて大声で客引きをやっている光景が私の日常だった。蛍光灯のまだ少ない商店街は、辺り一面が橙色の活気に満ちていたものだった。
 両側の店々の間を所狭しと流れてゆく割烹着に買い物篭を下げた夕暮れの風景が、このラバトの闇と喧噪の中でセピア色に甦っていた。


ラバトの宮殿。手前にあるのは砲台。

 さらばアフリカ、アラブの人たち。この北アフリカの旅ではたくさんのエキゾチックな体験をした。土埃のヒッチハイクは何故か私に懐かしい暮らしの風景を振返らせてくれた。金銭的な富みを越えた「バイタリティ」というものが人間に幸せをもたらすものである事も、僅かながら教えてくれたようだ。
 夕暮れのタンジールの港。目の前には海峡を挟んでヨーロッパの地、スペインが見えている。かがり火を焚いた薄暗い巡航船には、今日も欧州に出稼ぎに行くアラブの庶民たちでいっぱいだ。私も連中に混じって、再びアルバイト生活を始めるために海峡を越える。

 勝手知ったるヨーロッパの地に戻る事に、ほっとした気持ちと少しの淋しさがあった。アフリカでの生活は毎日が旅の連続で、日々「生きている事」だけで充分だった。人生を放浪している事が、生きている事の証として納得出来る時間でもあった。
 しかしヨーロッパに戻ればそんな訳にはいかない。「何をしにわざわざ日本を離れて来たのか?」その意義を見い出さねばならないという不自由なテーマを再び背負い始める事になる。そんな憂鬱が心のどこかにあったのかも知れない。


<第一部:青年は荒野をめざした〜完〜>

 

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